電球や蓄音機など、1300もの発明を残したトーマス・エジソン。
「この子は知恵遅れだ」と言われた息子の才能を信じ、
開花させたのは母のナンシーだった。
エジソンは1847年、アメリカに生まれる。
幼いエジソンは何にでも疑問を持ち、聞いてまわる子どもだった。
6歳で通い始めた小学校では、落ち着きがなく、質問ばかりして迷惑だと言われてしまう。
エジソンが7歳の時、小学校の先生から母宛への手紙を預かります。
母ナンシーはその手紙を受け取り、読んだ後、涙が止まらなかったそうです。
その涙をみて、エジソンは聞きます。
「なんでそんなに泣いてるの?」母ナンシーは手紙の内容を伝えました。
「おたくの息子さんは天才です。残念ながら我が校は小さな学校ですので、
その才能を伸ばす先生も教材も充分ありません。
ぜひご自分で教育されますようお願いいたします。」
ナンシーは、エジソンを学校に通わせず、自分が先生となって教えることを選んだ。
ナンシーはエジソンの疑問を一切否定せず、一緒に考えた。
卵を人間が温めてもひよこが孵るか、自分たちのポケットに入れて実験をしたり、
考えてもわからないことは辞書で調べたりと、ふたりだけの教室は発見で満ちていた。
さらにエジソンの疑問を解決できるような本を次々と与え、
地下室で実験をすることを許した。
その一方で、エジソンが好奇心から麦を貯めておく塔に落ちかけたり、
川で溺れたりしたときは、樫の枝で叩いて厳しく叱った。
そして夜には、息子が無事だったことを神に感謝し、祈りを捧げた。
祈る母の姿を偶然見かけたエジソンは、その姿を生涯忘れることはなかったという。
15歳になり、汽車内で新聞を売るボーイとして働いていたエジソンは、
ある事故で聴力が弱まってしまう。
落ち込むエジソンにナンシーは言った。
「あなたには眼も鼻もついているし、健康だわ。夢を捨てず、努力を続けなさい」
ナンシーの励ましもあって前向きになったエジソンは、
「耳が不自由だとかえって集中できる」と言うまでになった。
そして15歳から電信を習い、電信技師として働きながら実験や発明を続けていた。
22歳のとき、発明が高く評価されたエジソンは発明家として独立。
喜んだナンシーだが、翌年、内臓の病に侵され、61年の生涯を閉じた。
エジソンが母の遺品を整理しているときに、学校からの手紙を見つけます。
その手紙にはこう書いてあったのです。
「おたくの息子さんは精神的に不完全です。当校はこれ以上彼を出席させることはできません。息子さんは退学です。」
エジソンのことを常に想ってきた母、エジソンが偉大な発明家となったのは
母の献身的な支えがあったことが分かります。
悲しみに暮れるエジソンはナンシーの墓前で、
母の愛のように世界を照らす発明家になると誓う。
エジソンはその後も発明が行き詰まったときなどは、
頭の中でナンシーをイメージし、意見を交わしていたという。
エジソンの日記には、「苦しいときは、私のすべてを受け止め、支えてくれた母の笑顔を思い出し、その無言の励ましに勇気づけられていた」と書き残されている。
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